瀬戸内かみじまトリップ

橋を巡る離島旅 「変わりゆくもの、変わらないもの。渡船と弓削大橋の物語」 ゆめしま海道 ③ 弓削大橋・弓削島、佐島
Island trip around Bridge / "Things that change and don’t change. The story of the boat and Yuge Bridge." Yumeshima Kaido (3) Yuge-Bridge, Yuge – Sashima island

ゆめしま海道特集③

弓削大橋を自転車で渡って

愛媛県越智郡上島町、弓削大橋。町内の島々を結ぶ「ゆめしま海道」を構成する3つの橋としては最も早い1996年3月に開通して以来、弓削島と佐島との間に広がる約250mのちいさな海峡を結ぶ「海上の道」として島の暮らしを支えてきた。
たとえば食料品店や病院が無い佐島に暮らす人々は買い物や通院のために弓削島へと、また弓削島に暮らす親たちは保育所に子供たちを送迎するために佐島へと、弓削大橋を往復する。
そして弓削大橋を行き来する島民の中には、現在上島町内に3つ存在する町立中学校のうち、弓削島/明神地区の海辺に建つ「上島町立弓削中学校」へ通う中学生たちも含まれる。生徒たちの自然を思う気持ちは強く、時に有志が校舎の目の前に広がる海岸の清掃を行い、また2年生(2021年度)は「総合的な学習の時間」の中で、環境美化のため海岸に回収箱を設置するプロジェクト「ビーチクリーンプロジェクト/BCP」に取り組んでいる。
そんな弓削中学校の全校生徒数は63名(2022年2月現在)、そのうち佐島から自転車で弓削大橋を渡って通学する生徒は5名。海上に架かる斜張橋を日々往復する通学の様子を、中坂莉菜なかさかりなさん(15)中坂菜緒なかさかなおさん(14)姉妹、そして阿部叶定あべかなで君(13)、奥河董馬おくがわとうま君(13)に聞いた。
朝、4人が家を出る時間は7時前から7時過ぎ。それぞれのペースでばらばらに登校する(叶定君は毎朝学校で1番に登校することを目指している)。学校までの所要時間は20~30分。橋長567mの弓削大橋を渡って連続する坂道を下り切り、つい先刻渡った弓削大橋の今度は橋桁の下をくぐった後は、海沿いにカーブしながら続く県道をひたすらペダルを漕いで行く。学校の近くに住む友達より早めに出発しなければいけないし冬は手袋をしていてもハンドルを握る手がかじかんでしまうけれど、「朝焼けのオレンジ色がまだ残っている空を見ることができるからとてもうれしい」と教えてくれた。

大人になっても、佐島で

下校時は島に繁殖しているイノシシが出没することもあって危ないから、橋を渡る手前の弓削大橋開通の記念碑がある辺りで待ち合わせをして、出来るだけ一緒に帰るようにしている。それぞれが部活を終えた夕刻、集まってもすぐには出発しないで、おしゃべりしている間に見える月はとてもきれいだ。
朝夕、4人が全身に潮風を浴びながら自転車を漕いで橋を渡る時、上空に広がる空は刻一刻とその様を変え、毎回写真を撮りたくなるほどの美しさを見せてくれる。そして橋の下では空を映す海がきらめいている。
橋上に日差しを遮るものは無く夏はとても暑いけれど、「下り坂で流れてくる風がすごく気持ち良い。それに友達が一緒でも、自転車を漕いでいる時には自分ひとりの時間という感じがするのがいい」という。4人に島の良いところを聞くと、自然が豊かなところ、そして人が「ほど良く」少なく(小さい頃から泳ぎや釣りにいく海岸はほぼ貸し切り状態でたっぷり満喫できた)、その豊かな自然の中で何も考えず「ぼおっとできるところ」だとうなずきあった。
保育所から小、中学校と同じ学校に通う弓削島、そして佐島の子供たちは、中学卒業のタイミングで、島内に残る子/島を離れる子とそれぞれの道を歩んでいくことになる。もしかしたら進学や就職などで一度は島の外に出るかもしれない4人に、佐島のためにしたいことはとたずねたら「荒れている山に木を植えたい」、「ゴミが流れついている海岸をきれいにしたい」、大人になったらどこで過ごしたいのかたずねたら「やっぱり佐島」と答えた。
自然の大切さ、そして、自然の中で自分自身と静かに向き合えることのかけがえのなさを、島で育った彼、彼女たちの心と体はよく知っている。

佐島、手漕ぎ船の思い出

莉菜さん、菜緒さん、叶定君、董馬君が生まれたのは弓削大橋開通の約12年から10年後のことだ。暮らしの中に当たり前に橋があるようになる以前、島と島とをつないでいたのは、ちいさな船とそれを漕ぐ人の手だった。
「わたしが中学生だった頃は、船頭さんが櫓で漕いで進む手漕ぎの船で、佐島から弓削島に通っていましたよ」、60数年前の佐島の登校風景を笑顔で話してくれたのは、佐島で生まれ育ち島外の海員学校へと進学、1972年に家族とともに佐島へUターンしたという天野拓士あまのたくじさん(79)だ。
当時の船の発着所は、佐島側が、佐島の岸辺から歩いて渡ることが出来る3つの岩が連なったようなかたちの三ッ小島(現在はスプリンゲット・ダニエルさん(57)/斎藤公美さん(54)/斎藤サミュエル彰士さんファミリーが運営する観光サービス「島旅ヨット」「島旅サイクル」のベースキャンプとして活用されている)、弓削島側が、現在は弓削商船高専の練習船「弓削丸」が停泊する桟橋付近だったという。そのためか弓削町誌(当時)には「三ッ小島渡船」または「三ッ小島渡し」との名称で記載されている。
「三ッ小島には待合所があって、そこに船頭さんが待機していましてね。必要な時に声を掛けると船を出してくれました。対岸の弓削島から、おーい!と呼んで来てもらったこともよくあったねえ」、天野さんが教えてくれた。
そんな三ッ小島渡しの魅力をたずねると「とにかく家庭的なところ。船頭さんも乗っている人も知らん人がおらんくらい。中学生のわたしらがあんまり騒いでいると、船頭さんは櫓で海面を叩いて水飛沫をあげて子供たちを注意しましたよ」、天野さんはそう言って良い思い出だと笑った。船賃は大人5円、自転車を乗せると10円、当時菓子パンがひとつ10円ほどだったそうで、中学生は無料で乗ることができた。発着所間の海路はおよそ300メートル。同級生とのおしゃべりしながらの5分ほどの乗船はのどかでとても楽しかったという。
「でも船は危険、特に小さな船はね」、そう語る天野さんが今も忘れられないのは1957年に起きた転覆事故のことだ。
「12月18日、16時5分、海上瞬間風速は20メートル。ちょうど下校時刻と重なって、安全に運行できる30人の定員を大幅に越える50人以上の生徒が船に乗り込みました。危ないからと船頭さんは下船命令を出し、乗船人数を減らしてようやく出航したのちのことでした」、天野さんは当時の様子を克明に話した。

昭和30年頃の佐島三ッ小島と弓削島石灰山

航海士を鼓舞したもの

事故が起き、転覆した船のひっくり返った船底に幾人もの学生が上がろうとしたため、船は繰り返し海中に沈み込んだ。天野さんは自力で岸まで泳ぎ切り九死に一生を得た。鞄はもちろん無くなり着ていたツーウェイオールの服(上半身と下半身がつながったいわばつなぎの服)が海水に締め付けられてとても苦しかったそうだ。泳ぎ着いた弓削島では事故を知って駆け付けた発着所の近くに住む人々が待ち、風呂を温めておいたから私の家に寄っていきなさいと労わってくれた。
のちに天野さんは外航船の船員となり、北米、パナマ、インド、オーストラリアなど様々な国への航海を重ねることとなる。
「これも中学生の時ですが、カメラやトランジスタラジオを提げて歩く船長さんに憧れましてね」、天野さんが事故を経て必要以上に海を恐れたり夢をあきらめることはなかった。むしろたとえば航海中、眼前に波が山のようにそそり立つ大時化に遭った時には、あんなことを乗り越えられたのだから大丈夫だと、事故の経験が自身を鼓舞する「力」になったと教えてくれた。
「なにくその精神ですわ」、天野さんは明るく笑うと「天候に左右されず24時間いつでも渡れる橋はそりゃあ便利はいいですけどね、やっぱり小さい頃に見ていた、まだ橋が無かった夕焼けの風景が好きです。三ッ小島の向こうに点々と浮かぶ船が見えて本当にきれいでしたねえ」と笑顔を重ねた。

昭和13年の三ッ小島渡し

佐島渡船の船長さん

やがて弓削島と佐島を結ぶ渡船は時代の流れとともに、手漕ぎの渡し船から船外機を据え付けた船、そしてフェリーへとその姿を変えていく。
1971年からおよそ25年間フェリーの船長を務めたのが、1917年生まれの故矢野道夫やのみちおさんだ。
「手漕ぎのちいさな船と違ってちょっとくらいの風なら安心して乗ることができましたよ。船長さんは2階の操縦でよく北島三郎なんかの演歌をかけとったね。奥さんが切符を切って、息子さんも時には手伝っていたなあ、親子で船の免許を持っていたと思うよ」、佐島でお話をうかがった天野さんが思い出を語ってくれた。
総トン数18.1t、最大旅客数12人、2tトラック2台または軽自動車4台を同時に乗船させることができたという矢野さんの船にはのんびり座れる畳張りの乗船席スペースもあり、買い物や仕事、通学などに利用された。島外の病院へ患者を搬送する「救急艇」が導入される以前は急患を乗せて海上をひた走ることもあったらしい。
矢野さんが操船する船で弓削島と佐島を行き来した人たちは、そのちいさなフェリーを「佐島渡船」あるいは「渡船」、そして矢野さんのことを「船長さん」と親しみを込めて呼んだという。矢野さんも乗客に深い愛情と強い責任感を抱いていたのか、「弓削島で知らん人はおらん、知らん人でも、(利用してもらううちに)だんだん知ってくるかんじ」、「多少体調が悪くても事故を起こしてはいけないという緊張感からか、船に乗ればしゃきっとする」と町の広報誌やケーブルテレビの取材で語る様子が今も残されている。
正月とお盆の3日間をのぞいて、雨の日も風の日も変わることなく佐島渡船はほぼ毎日運航していた。矢野さんは毎朝6時には船着き場へ出勤し、6時50分から18時までの22往復の操船をこなした。
1996年3月、弓削大橋の開通とそれにともなう弓削島/佐島間のバスの運行開始により、佐島渡船は人々のために佐島と弓削島をつなぐという大切な役目を終え廃止された。

弓削町CATV開局記念番組から

新しく、明るく、たくましく

矢野さんが25年間発着を続けた桟橋は、かつて島民に「大洋に浮かんだ優美な背美鯨せみくじらの姿」のようだと謳われた(※1)弓削島の海岸線の、ちょうどくびれたあたりに今もあり、現在はピーターセン・マシューさん(27)、ピーターセンももこさん(28)が管理する「ゆげ海の駅」として活用されている。
最大6隻係留(※2)と決して大きくはないこの海の駅だが、設備の充実や徒歩圏内にスーパーや銀行、ガソリンスタンド、飲食店が並ぶといったアクセスの良さから、日本各地、そして世界各国から年間400艇以上(2021年度実績)が寄港するヨットマンたちの人気スポットとなっている。その浮き桟橋に降り立てば、弓削島と佐島を結ぶ弓削大橋が海上にかかる姿を望むことができる。
ゆげ海の駅へ訪れた船も、弓削大橋を渡り下弓削地区方面へ走って来た自転車も、それぞれ海上と陸地とで必ず一度は弓削大橋の下をくぐる。その時晴れていれば、町の島々を囲む瀬戸内海が日差しを受け静かにきらめいている。弓削大橋が開通する以前、矢野さんもきっと、フェリーを操船しながら波間に瞬く光を目にしたはずだ。
佐島渡船が廃止となり弓削大橋が開通してからおよそ26年を経た2022年3月、ゆめしま海道を構成する最後の橋「岩城橋」が開通する。そしてそれとともに上島町岩城島の船会社「岩城汽船株式会社」が、約68年間岩城島と因島を結んできた定期船航路の廃止を発表した。そのプレスリリースには、貸切クルーズや団体送迎、工事車両等の海上輸送といった「貸切船事業」を柱に、今後も社会貢献していきたいと書かれている。
新たなインフラの登場とともに消えゆくものがある。だが同時に、それまでにはなかった景観や人の流れ、コミュニティ、新たな出会いが確かに生まれる。
流れゆく時代の中で、島々に寄せる波の光のようにもし変わらないものがあるとしたら、かつてこの町で暮らしていた、そして現在、さらには未来にこの町で暮らす人たちが持つ、島の自然や人々を思う気持ちと新たな環境の中で何かを生み出していける、眩いような明るさ、たくましさなのかもしれない。

(※1)弓削町誌より抜粋、(※2)1艇10m未満の場合

【参考文献および資料】
弓削町誌、弓削町誌補遺、弓削町広報(1990年4月号、1992年7月号、1995年7月号、1996年1月号、1996年5月号)、弓削町CATV開局記念特別番組「渡船とともに25年」(1995年)

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